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Deepthink for tomorrow.

迷ってる、悩んでいる人へQronosの「机上の空論」 

幸せになる勇気はあるか? Vol.4

Vol.4です。このページは13500字を越える文章量(400字詰め原稿用紙30枚以上)ですので、時間に余裕のある時に読むことをオススメします。

 

東日本大震災 病いの始まり 絶望の始まり

私が高校受験をした日は2011年3月9日でした。

東日本大震災の僅か二日前です。

その日試験中に大きめな地震が来ていました。いわゆる前震ですね。

ゆっくり大きく揺れる気持ち悪い感じ。 震度は4か5弱くらいだったかな?

試験官は教室の扉を開けましたが、受験生に机の下に隠れるよう指示はしませんでした。

割と揺れが続いていたような気がしますが、

「あっ収まりましたね」と、軽い感じで試験は続行されました。

 

書いてなかったかな?と思うのでお話しします。

私は岩手県出身でして、津波被害を受けるような場所には住んでいなかったのですが、同じ県民としてあの震災を経験しました。

 

3.11地震発生当時、私は受験も終わったので兄妹と一緒に手作りのチェスをして遊んでいました。 

すると突然姉のケータイが聞いたことも無いアラーム音を上げて鳴り出しました。

エリアメールですね。

なんだなんだと言ってると、いきなり壁がミシミシと音を立て、家が大きく揺れ出しました。

その頃はキャーキャー笑いながらテーブルの下に隠れた記憶があります。

大きな雷や局所的豪雨でテンションが上がるみたいな感じですかね。

 

しかしその後、ハイテンションのまま「今の震度は!?今の震度は!?」とテレビを点けたんですが、画面に表示された情報に愕然としましたね。

まず震度がでかすぎる。大津波警報の範囲が広すぎる。

突然訪れるんですね。そういう時って。タイミング的にも最悪です。

そこから津波到達まで数分あったと思いますが、本当に津波があそこまで来て、車で逃げても間に合わなくて、

ミニチュアみたいに全部流される映像を見て、行った事のある街がそのまま海になっていて

何でしょうかね。人を殺してしまった後ってこんな気分になるのかなって思いました。

映像はかなりしっかり覚えているんですけど、気持ちを言葉に出来ないというか、感情を持って映像を見ていたのか全く覚えていないんですね。

その後の事はもう何も憶えていません。

 

実はその翌日は中学校の卒業式でした。何とそのまま決行。

停電しながらの卒業式でしたので、コートやジャンパーを着ての卒業式でした。

交通の事情で来れなくなった人もいました。

私は文化祭で全校合唱の指揮者をやっていた為、その卒業式でも指揮を頼まれたのですが・・・。どんな気持ちだったとか皆が泣いていたかとかどんな表情だったかとかそういう事は何も覚えていません。

実際卒業証書を貰ったかも記憶していません。

ただ、振る腕が寒かった。

 

そこからですね。

記憶が断片化し始めたのは。

 

ラジオは無機質な話し方ばかりで、緊急地震速報はバカみたいに来るし・・・

自分が避難所生活をしていたらもっとヤバかったんじゃないかと。

電気が復旧してからは毎日ACのCMばかりが流れていて不気味だったし、ニュースや原発の事ばかり。避難所生活をしていない私でさえ自粛自粛でストレスが溜まっていたのを覚えています。

 

まだネットツールを何も持っていなかったんですが、その時ネットってどんな感じになっていたんでしょうね。 

偽善だなんだという言葉が飛び交っていたんでしょうか。 

 

人って何にも力がないんだなって思いました。

SNSで不謹慎な発言してる人間に怒っても意味がないな。

何もなかったやつが互いの論の揚げ足を取り合ってるのって意味ないな。

こういう時だけ目を覚ましたように感謝の言葉を遺すって意味ないな。

何をしてるんだろう。

「頑張ろう日本」も都合いいだけで意味ないな。

そんな感じでした。

 

いつの事だったでしょうか。高校に入る前です。

父親津波関係、沿岸地域の写真が載った雑誌を買って来たんです。

祖父と父がそれを見ながら何かを話していたのをぼんやり覚えています。

各々が寝始めた頃、私は風呂の順番を待ちながら小さな灯りの中で歯を磨いていたかなと思います。

その最中、その父が買った写真集が目に留まったのです。

 

気付いたらそれを無意識に開いて、泣いていました。

体育館に毛布やブルーシートでグルグル巻きにされた何かかが大量に並んでいるというか無造作に置かれている写真。

そこから素足が出ていました。泥が乾いて薄く汚れ、硬直している老いた足。

泥の混じった瓦礫の中から腕がというものもありました。

何処か分からない田んぼのようになった場所で泥水に埋もれ、背中側だけが露出している遺体の写真。

雪と瓦礫の中で一人で泣く人。

例えば、自分の娘をこの中から捜すのです。

例えば、自分を見つけてもらうのです。

出来れば、そんな写真と出会わない人生の方が良かった。

史上最悪の災害を、生まれた土地で経験などしたくはなかった。

 

私は家族も家も失くしていない。

けれどこの時既に心の中はカラになっていました。

今までの価値観が崩落。崩壊。

中学時代、音楽室に貼ってあった「建設は死闘!崩壊は一瞬!」という言葉を思い出しました。

それが本格的な病いの始まりでした。

 

 

 

トップクラスの完璧主義者

 

高校は無事合格。

私は下宿生活を始め、半一人暮らしになりました。

高校時代の想い出はあまりないんですよね。中学時代より憶えていない。

 

記憶の中の自分は、散らかった部屋で一人泣いているだとか、

ご飯が出るのにわざわざ仕送りのお金を使って食べ物を大量に買って引きこもって食べている。

絵を描こうとして全く描けない事に焦りを感じ、どんどん鬱になっていく。

そんな感じです。

普通先輩後輩だとか友人との思い出がいっぱいあるもんでしょうが、そういうのは特にありません。

あるにはありますが、文章にするほどの想い出もない。 

震災の事だとか恋愛だとか人間関係、生活だとか将来の事だとか・・・悩み全てを一人で抱え込んでいた3年間でした。

残念です。

 

 

入学初めは爽やかに起き、綺麗にバッグに物を詰め、友人と朝食を摂り、進研ゼミも嫉妬するくらいの充実感で学校へ向かっていました。

「高校生活を成功させてやる!」

 

しかしそんなものは一時の気の迷いでした。

二か月もすると朝は7:40起きに。準備に時間をかけ、月日が流れるとともに遅刻することが増えていきました。 

 

起きていても一時限目が終わるころに登校したり、12時に登校したり。

成功どころか、学年でもトップクラスの問題児として噂されるようになってしまったのです。

 

 

ある朝は、朝起きると7:50。かなりギリギリ、というかもはやアウトです。

「・・・休んでしまおう」と思うようになります。

何故そう思ってしまうのか。

甘えと言う見方もまあ正解です。

私のようなタイプは一回でも甘やかしたらそこで終わりですから。

精神が病んでいてもパッと見健康そうですからね。他人なら絶対サボりだと思うはずです。

 

しかし問題はそこじゃなかった。

何が問題かと言うと、「ああ遅れた。まあいいか。行こ」ではなく、

「遅れた。休んでしまおう」という考えになっていったところ。

 

私は馬鹿みたいな完璧主義者だったのです。

理解できないかもしれませんが、完璧主義だと、

「完璧にやって来たことが崩れた」と思った瞬間諦めてしまうんです。

ノートの最初の方は丁寧に使うだとか、綺麗な消しゴムの角を大切にしたことはありませんか?

あんな感じです。

普通汚くなっても同じものを使い続けますが、

完璧主義だと、ノートや角が汚くなった瞬間に他のモノに変えてしまう

そんな面倒なやつだったのです。

 

それが祟って、例えば「絵を毎日描こう」なんて意気込んでも継続することが出来ませんでした。

完璧主義なので初日は完成するまで、納得が行くまで絵を描こうとし続けるのです。

そしてもう次からはない。 

学年トップクラスの問題児はトップクラスにクソ真面目だったのです。

現実、約束を達成できなかった時は誰よりもそれを気にしていましたから。

無責任どころか責任を背負いすぎて潰れるタイプ。

燃えやすく、燃え尽きやすい人間だったなと今になって思います。

ですから、担任の教師と「明日必ず7:30に職員室に来るように」なんて出来もしない約束をして、前日緊張しながら10:00には布団に入る事が何度もありました。

精神が参るのも無理ないです。

 

面倒な事に、前日頑張ったものですからその約束は翌日ちゃんと達成できてしまうんです

そしてもっと悪いことに、それで「変わる事が出来た!」なんて思ってしまうのです。

「明日からも続けます!」

当然その情熱がいつまでも続くわけがありません。

出来ない事を無理に約束し続けて、完全に私はおかしくなってしまったのです。

そうして約束を交わした人間は、私への評価をどんどん下げていった。

それを食い止めるためにまた約束をする。

「今度こそ!」「次こそは!」

同じことの繰り返しです。

私は数年間このループから抜け出せず、苦しめられました。

私に対する周りからの信頼度は、「0」を通り越して「マイナスの世界」に突入していました。

 

入学した頃も友達を作ろうと必死になった

新しい友達作りが不慣れだったこともあり、学校で一人になる1分1秒が辛かったですね。

新学期に友達出来なかったらずっと孤立してしまう。

そうやって必死になったおかげで少数のクラスメイトや部活の仲間とは仲良くなれましたが、完全に心が蝕まれていました。

無理して仲良くなった友達との付き合いは、その先も無理にやる事になるのです。

 

 

小心、傷心、焦心

自分が悪いんですが、一つ傷ついた事があります。

6月頃だったかと思います。

早々に鬱になっていた私。燃え尽きていたんですね。

でも学校に行けば頑張ってしまっていました

その分帰ると何もできないのです。ゴミや洗濯物が溜まっていました。

元々生活力が無かったのですが、下宿でご飯は出るんだし一人暮らしになったら洗濯くらいはやるでしょう。

しかし洗っても干す気持ちになれない。

普通では考えられないかもしれませんが、そうなってしまう。

頑張って認めようとしませんでしたが、どう考えても病気でした

 

放置していた洗濯物ってだんだん臭ってきますよね?

着ていくものが無くなったので前日夜中に干したのですが、朝になっても乾いていなかった。

ドライヤーで焦って乾かして学校に行きました。

梅雨の時期。湿度が高いばかりか走って登校した為、蒸れて胸元から最悪な臭いがしていました。

 

「臭っ!」

授業中に隣のチャラい感じのいわゆるサッカー部男子がハッキリそういいました。

そうして教科書で自分の周りを扇ぐ。

後ろの席の奴に「臭くね 臭くね」と小声で言い、そいつも顔をしかめて「マジだマジだ」と言う。

視界に入ってしまったのですが、完全に私の事を指差していました。まあ私以外にいないんですが。

仕舞いには思い切り席を立って窓を開ける。

心臓がギュッとなりました。冷や汗や脂汗。色んな汗が出ました。

おどけて「すまねえ★ 本人が一番臭いわ(笑)」なんて言えない。

隣の奴は何にも悪くない。

けれどクラスメイトのいる前でそう言われた私は、ただただ傷つきました

イジめられる人ってこんな気分なのか・・・と知りました。

完全に思考が停止するんですよね。

 

 

高校に入って部活仲間と慣れ始めたある日。

「被災地ボランティア」の募集の紙が各教室に貼られました。

私は、それを見て即「行こう」と決断しました。そうして申し込みもしました。

この目でその現実を見る必要がある。この手で助ける必要がある。

そういう想いで参加表明をしました。

 

しかし、その当日。

私は朝早く起きて、登校せずに引きこもっていました

何故かは憶えていません。燃え尽きとも少し違うような。

気付けば集合時間が過ぎていました。

事前に実家に電話をして長靴や軍手などをもらっていましたし、

ジャージを着て完全に出る準備ができていたのに出られない

 

そう思っていると、部屋の扉をドンドンと叩く音が。

なんと部活の仲間がわざわざ学校から走ってきたのです。

という事はつまり、バスが、参加者全員がまだ自分を待っている。

友達や学校から電話も架かってきていました。

その時でした。私が着信やノック、インターホン恐怖症になったのは。

その日、結局私が部屋から出る事はありませんでした。

 

夜。

父親から電話がかかってきました。

両親の電話に出ないと、わざわざ実家から一時間かけて下宿まで押しかけてくるのです。

宿主のおじさんが合鍵を持っているし、外に逃げてもずっと部屋で待つので、対面は避けられません。

なので、その電話には出ました。

父親ものすごく怒っていました

何故そこまで怒る必要があるのかというくらい怒っていましたし、

何か月か経った後でも父親はこの事を引きずってわざわざ人に言いふらしていました。

私が不真面目で不良で、寝坊をし、人を待たせ、人の期待を裏切るような最も重い罪を犯したと言うのです。

私はそこから、親から着信があっても全く出られなくなりました

 

 

 

2年の頃から特にそれが酷くなっていきました。

鬱のまま朝を迎え、寝たふりをし、宿主のおじさんに鍵を開けられ、散らかった部屋を見られる。

「先生から電話が来てる」とウンザリした顔で言われ、「あっハイ!」と焦って起きたかのような演技をし、下に降りて電話に出る。

 

今でも忘れられません。

「もしもし・・・おはようございます」と

電話に出た私の耳に入ってきた最初の言葉。

 

 

 

「バーーーーカ」

 

 

女性教師からそんな事を言われるなんて思いませんでした。

「とりあえず授業出なくていいからすぐ職員室来い」

そう言われ私は心臓をバクバクさせながら学校に向かいました。部屋を出るまで2時間かかりました。

私はまたサボりだと思われ、職員室の圧力の中、

「明日は遅れません」と出来ない約束をするのでした。

 

 

引きこもりと出会い

 

昼食の時間に登校。 

「生徒の呼び出し」の放送が流れる。

その放送では課題の提出をしない人が呼び出されたりする事が多いのですが、

毎回私の名前が呼ばれるのです。 

その度学校中に私の名前が流れる。

それがほぼ私の日課になっていました。 

 

担任は私の親に「Qronos君は一度病院に連れていった方がいいと思います」という事を言っていたそうですが、

結局高校3年間私は一度も病院で相談しませんでした。

父親は「人の息子を病人呼ばわりする酷い教師だな」と思っていたそう。

「お前はあの女の先生と合わなかったんだな」

そう決めつけられていました。

それから行かなかったのには、私本人に「自分は鬱病だ」と認めたくない気持ちがあったからです。

鬱病になるなんて。きっと自分は甘えてるだけなんだ。

人に相談しなくてもその甘えさえ取り除いてしまえば解決する事なんだ。

わざわざ金を払うなんて勿体ない。その金があるならもっと美味しいものを食べる。

親や教師、病院にきっと自分の事を全て話せと言われる。

今まで言えなかったマンガの事も言う事になる。

性的な悩みを誰にも言った事が無いのに、その事も言わなきゃなくなる。

それくらいなら自分で解決した方がいいんだ。

私は頑なに「私は健康だ」と思い続けました。

そうして、「行動が変われば周りの人間もそういう事を言わなくなるのだから」と思い、

部屋を一気に片付け、洗濯もし、行かなくなっていた部活にも顔を出しました

 

 

また頑張ってしまいました。

しかし当時それが間違いだという事には全く気が付かなかった・・・。

自分を客観的に見ているつもりが、一人の世界に閉じこもって自分の事を考えているだけだったのです。

 

そこからはもうダメでした。

私は10日ほど学校を無断欠席。欠席するときは必ず連絡をしろと言われていましたが、電話などできません。10日間ずっっっとベットで寝ていました。

流石に節々が痛んできますが、どうしようもなかった。

復活するのにも神経をすり減らしました。

 

そうしてまた学校を無断欠席することがかなり増えましたね。

時々気をおかしくしたというか、

「このままじゃダメだこのままじゃダメだ」「痩せなきゃ」という想いで夜、夜中にランニングに出たり、

逆に散歩に出たかと思えばコンビニでポテチや美味しいプリンを買って食いまくったり。

最悪でしたね。食べるものも時間もおかしくて消化不良を起こしてましたし、

体は緩くなってくるわ肌が黒くなってきて友達に馬鹿にされるわで散々でした。

お金もかなり使いましたね。8割食費に使いました。

しかし、ちょっと楽しくもあるんですよ。何にも拘束されない感じが。

最悪な楽しみでした。気を付けた方がいいですよ。ほんとに。

 

当時持っていたのがガラケーで、画質や通信量が悪いんですが、

その分どれだけ動画を見ても通信制限になどなりませんでしたので、

ずっと動画を見ていました。

裏ビデオやピンク画像もその頃に見るようになりました。

しかし、性的興奮をして自慰行為という感じではありませんでした。

多分する事無いからとか、寂しさゆえとか、

心の病から来る自慰だと思われます。

中学時代と同じく禿げる事に関して酷く焦りを感じていたのですが、そこでも止める事が出来ない罪悪感に苛まれる。

いつまでも止められないという事で、中学時代よりもっともっと重い罪の意識がありました。

 

iPodtouchを買い、実家に帰った時に動画やアプリを一気にダウンロードし、見るなんて事もやっていました。

当時見ていたのは「京浜家族」ですかね。あの「鷹の爪団」とかで有名な蛙男商会のアニメです。いい話ですよ。 

「コギャルのコフィー」とかもありますね。

 

youtu.be

 

それからサカナクションに出会ったのもこの時。

Youtuberの瀬戸弘司さんっていますけど、あの人の動画に出会ったのもこの頃です。

アニメではみなみけを見て心に平穏が訪れ始めました。日常系アニメですね。

ファッション誌に何故か載っていた魔法少女まどか☆マギカが気になって見てみたんですが、

あまりに感動して「アニメを作るのもいいかもしれない」なんて思うようになりました。

他にも様々なアニメを知る事になりましたし、いろんな音楽アーティストも知る事になりました。好きなお笑いもかなり見ました。

画像加工や動画編集技術を身につけましたし、知らない事を一気に吸収しました。

少しマンガも買うようになりました。

おおきく振りかぶって だとか空が灰色だからを買いましたね。

 

ちなみにの話ですが、

アニメ映画とか教育テレビのアニメだとか

休みの日の朝にやってるようなキッズ向けの物以外で

初めて一人で見たアニメはけいおん!です。

中学生の頃に見ました。

やたら流行っていて気になっていたのもあったし、番組表を見たら、BSでやってるので、「今夜絶対見てやろう・・・!!」と意気込んで見ました。

AVを初めて見る男みたいに皆が寝静まった時間にそろそろと降りてきてイヤホンを付けてテレビで見る。

背徳感が尋常じゃなかったですね。13話だったかな?と思います。

確かその時期「初恋限定。」という週刊少年ジャンプのお色気マンガのアニメもやっていたかと思います。

もうエロ動画を見るのと変わらないですね。

この前この話を美容師さんにしたら珍しすぎると笑われました。

こんなこそこそしてアニメ見るやつもいないですよねえ。

 

 

迷い続ける私 崩壊する私

 

何度親が下宿に来たか分かりません。

母親に「教育の仕方がおかしい」とその時ハッキリ言った事があります。

これがまた後々問題を引き起こす事になるのです・・・。後日詳しく書かせていただきます。

「もう金輪際部屋に来ないで欲しい」というのが私の素直な気持ちでした。

 

気付けば私は3年生に。

問題は続き、新しい担任までもが下宿に来ました。

かなり問題児です。

一向に改善しない生活。

私の引きこもり体質、遅刻がとてもひどく、結局部活も行かなくなってしまったので

面談には担任どころか学年主任まで出てきてしまいました。

面談の回数も増えてきました。

それを見兼ねた親が、「下宿を引き払って実家から通え」と言い出しました。

私たちだけの個人面談の後の事です。

もちろん嫌でした。

ここで素直に「うん!」という人はいないんじゃないですかね。 

 

その進路に関してじゃない面談を終えた後。

「とりあえず今日実家に帰るぞ。乗れ」

父親は私に車に乗るよう言いました。

私は無性に腹が立ってきました。

小さいころから「お前は9月9日生まれで『救急の日』だから、消防士になれ」などと

己の願望をぶつけ、勝手に私のやる事を決めようとしてきた親に対する恨みが募ったのです。

「この歳でまだ言うか・・・!!!!」

そういう怒りがこみ上げてきたのでした。

 

生活は変えられるんだ。今一人で暮らす力を付けないとダメなんだ。

それに、実家に帰れば何があるか分かってる。

俺は自由を失くすだろう。絵も何も描けなくなるだろう。仕送り金も無いから好きな本も買えなくなるだろう。

いままでの生活が終わってしまうのだ。彼女もいる。気軽に会えなくなる。

全てにおいて都合が悪い。

 

私はそこでとうとう反抗的な態度を見せました。

無言で歩いて校門に向かい、下宿に帰ろうとしたのです。

父親は私の荷物の紐を思い切り掴み、止めてきました。

その力の強さとかしつこさがまた腹立たしいんですよね。

ストレス抑制型じゃなくもっとキレやすい子だったら間違いなくブン殴っていました。

私は舌打ちをして「帰るから」と言い荷物をグイと引っ張りました。

すると、父親はブチ切れ。

何て言ったかなんか覚えてませんが校舎前で大声を出し、

持っていたパンフレット的な厚みの冊子を地面にバンと叩きつけて、とにかく怒鳴ってきました。

これがまた酷いもんで、クラスメイトやら教師やら部活で来ていた生徒が普通に歩いているんです。

街中で大声を出しているようなもの。全員の注目を集めていました。

怒られている事よりも、私の父親がこんなに手足が短く、禿げている太った人間だと周りに知られた事が恥ずかしかったですね。

私はと言うと、ポーカーフェイスを崩さず冷めた目で父親を見ていました。

 

その実、対抗力を持っていなかったので反抗的な目をするだけに留まっていました。

詳細は覚えていませんが、結局その日は帰る事になりました。

翌日「あれQronosのお父さん?なんかすっごい怒られててビックリした」と言われ、心底死ねばいいと思いました。

後日「あんなに学校の前で怒鳴って悪いことしたなあ」と言われてその蟠り(わだかまり)は無くなっていきましたが。

 

結局下宿は引き払う事になりました。そして家から学校に通う毎日の始まり。

iPodtouchやケータイがあってまだ助かりました。

どちらも持っていなければ情報の格差がものすごかったと思います。

機械と言えども今の時代では大きな意味を持っていますからね。

ただ、機械が大嫌いな古い人間が親となると、そこがどうも上手く行かない。

本人たちがスマホを持つようになるまでいちいち干渉されていましたね。

心の支えと化していたのですが、朝起きると勝手に取られたり隠されたりしました。

その度殺意が溜まっていくんですよねぇ。

 

また母親の起こし方が最悪だった。

受験追い込みシーズン、冬場が特に酷かったですね。

朝5時。いきなり何も言わずにビンタをしてくる。

朝5時。いきなり何も言わずに敷布団ごとひっくり返してくる。

朝5時。いきなり何も言わずに頭部を蹴ってくる。

朝5時。吹雪いている日に大窓を全開にする。そうして布団を剝がしてくる。起きてもいないのにいきなりマイナス何度ですからね。

この母親の異常さも後日書かせていただきます。

私が今こうしている事にも関わってきますから。

 

そうやって実家から通わせられていたある日。

何があったか私は電車ではなく母親に車で送られて学校に登校しました。

たしか遅刻だったような。

母親が戻った後。私は誰もいない昇降口で足を止めました。顔を出すのが辛くなったのです。

私は靴を脱いだところで引き返し、校門を出てそのまま街へと歩き出しました。

もし捜索が入っても見つからないようにと、GPSを切断し、マナーモード、インターネットも切って音楽だけ聴けるようにしました。

9時から12時まで淡々と歩き続けました。

特に目的地を設定せず歩いていたのですが、土地勘がない為自然と彼女とイチャついた記憶のある盛岡城跡公園に着きました。

石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」の歌碑がある所です。

私は黙ってベンチに座っていたのですが、状況的に啄木と全く同じになってしまいました。

しばらくして写真を撮った後、私はそのまま帰りました。

電話が案の定来ていたので、素直に盛岡城跡公園に歩いて行っていたことを言いました。

私が健常者なら絶対こんな事にはならなかった

こういう思い出があるから記憶の中の自分はいつも一人で泣いているんでしょうね。

 

 

私は常に自分の作品の事を考えてきました。

これを何とか形にしたい。しないままでは満足に死ねないだろうと。

いつしか「その為には美大だ」と思うようになっていました。

私の好きなラーメンズの二人が美大を出ていたせいでしょうか。

この思考が私を更に失敗させ、今に至らせました。

 

 

気付けば10月になっていました。

もう受験生は進路を最終決定していなければマズい時期です。

私は今までと同じく周りに「教師かな」と嘘を言っていたので、志望校は現実味の無い京大、関大、東北大・・・なんて所にしていました。

ただ、それがここに来てとうとう耐えられなくなったのです。

「いつまでこの思いを隠して生きるつもりなんだろう。」

行く気のない志望校を、やる気のない事をいつまで書くのだろう。

いったい私は誰のために生きてこんな事をやっているのだろう。

私は結局この3年間、夢に向かって何一つ歩むことが出来ず、

ただその場で立ち止まり、自分の思いを人に悟られないように隠し続けてきただけでした。

 

そうしてある日、私は決心し、志望校を大転換させました。

東京芸術、武蔵野美術、多摩美術・・・

アホでしょう。また、受かるわけないと分かってて書いたというのもアホです。 

ただ、当時の私には、周りに本当の事を言うのが精一杯だったという事だけ分かってください。

とにかく自分の意志で生きる道を変えたい

その為に必死でした

 

周りに美大に行きたいという事を伝えた時、何か諦めたように「頑張って」と言われました。

親を何とか説得して受験をさせて貰える事になりました。

しかし私立は当然不可。他にも国立大で美術が勉強できる所はいっぱいあったはずですが、何にも知らない私は東京芸大にのみ目標を絞りました。

一体その先どうするつもりだったのか。

冷静になって世界を見ず、よく考えないという事は怖いです。

 

東京芸大志望の奴はきっとセンター試験科目がどうでもいいと思っている。」

業者テストの結果でそれが丸わかりでした。

だからこそセンターで少しでも稼いでおけば有利になるんじゃないか。そう考えました。

私は全国の志望者の中で二番。他の志望校に関しては全て一番でした。

いかに実技一本で勝負しているかが分かりますね。

 

私は使う教科のみに絞って、残りの時間をポートフォリオ制作に費やしました。

普通は塾に通わないと無理らしいです。

実際ネットで色々調べようとしましたが、どう作ったらいいかなんていう情報は全然見つかりませんでした。 

訳の分からない作品ばかり作りました。その辺の中高生でも作れそうなもの。

 

高い画材を買いました。でっかいキャンバスも買いました。

「音楽を聴いて、その瞬間瞬間の感覚を手で描く」と言って

ブチューーッとアクリルの絵の具を手に付けてキャンバスに塗っていきました。

それを撮影してポートフォリオにしなければいけないので、友人にお願いして親のデジカメを貸してもらったり。

情報処理室で演劇のような事もしました。人に見せられるような大規模なものでは無かったので、わざわざ体育館を貸し切りにとかはしませんでした。

PCが必要で、音声、映像をプロジェクターで映しながらやるものだったので、都合が良かったんです。

時間があるときに情報処理室を占領してポートフォリオや映像を作っていましたね。

そこで他の学年の授業が始まっても、「大学に出す作品で使いたいのでいいですか」と後ろの席で制作を続けました。一生懸命な変人です。

完全にそこの学校の学生ではない感じでした。場所を貸してもらっているだけみたいな。

通りかかったクラスの友達二人が途中から興味を示してくれて、少し手伝ってもらいました。最初と最後のシーンで電話をしているんですが、その相手の音声の吹込みの協力です。

作品は出来上がりましたが、すっごくおかしな出来上がりでしたね・・・。

自分にしか出せない深みを作ろうとして話を複雑にした結果、

言いたいことがハッキリせず、内容が薄くなってしまいました。

詳しくは書きません。需要がもしあった場合だけ書こうと思います。

 

いやあ、一次試験は私の得意な文章作成だけだったから合格することが出来たんですが、

最終試験では作品の説明を終えて部屋を出た後、試験官全員が笑っていましたね。

それはそうですね。

一体何を言いたいのか、何がしたいのかサッパリ自分でも分かっていませんでしたから。

分かっていない事を伝える事は出来ません。思っていたより健闘しましたが不合格でした。

 

一次試験で落ちれば出られたのですが、パスしてしまったので

最終試験を受けるために高校の卒業式を欠席しました。

私は結局中・高とまともに卒業することが出来なかった。

離任式後も他の大学の試験が控えていたので、

別に真面目に受験する気も無かったのですが、創作する事くらいは続けようと思って、

図書室で気取って難しい本を読みつつおかしな絵を描いていました。

来年度の受験生がもうちゃんと勉強をしている中、

私服でこんな事をしていたので、もう疎外感というか場違い感、アウトサイダーが半端じゃなかったですね。

「あ、生きるのに大失敗したな」そう思いました。

(↓その時に描いていたものです。私の作品はとにかく何が言いたいのか分からないので、みんな困惑していました。私もその一人です。抽象画なんだという事で納得しておきましょう。)

 

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「行ける大学に行って、まず就職する。アートを始めるならそれからでも遅くないだろう」

と言われたのですが、

その時の私は一切聞かなかった。

もうどうしようもなかったですね。 

受験させてくれたし、お金も出してくれた親には申し訳ないと思っていました。

しかしまだまだ私は傲慢だった。この後も我を通し続けます。

 

もし私が地元の大学とかに行っていたらどうなっていたのでしょうか。

金銭的に安定さえ出来れば、その生活が幸せかどうかはさて置き、極端に不幸では無かったような。

そうなれば良かったのでしょうが、どの道私は途中で辞めていたでしょうね。

続けられなかったでしょう。就活すら出来なかったはず。

そういう人間でしたから。学校の問題じゃあない

高卒で就職しても同じだったでしょう。

仮に美大に合格していてもそうだった。

私の中の問題であって環境の問題では無かったからです。

 

 

長々と読んでいただき、感謝いたします。

次回、Vol.5では高校卒業後から現在に至るまでの事と、家族の事を書きます。